鶴の隠れ家

このページは、
歌劇「夕鶴」を上演の際、管理人が作ったブログを移植したものです。





このブログは、「夕鶴」に関するコラム集です。
管理人(お茶汲みおばば)が私的に興味を持ったことを、勝手に解釈して書いています。
出典はできる限り明記するようにしていますので、正しい情報を知りたい方は、
そちらも併せてご覧になってください。
なお、記事は投稿順に並んでいます。






◆おばばの独り言


作ってみたんですけどね、このブログ。
どんな風になっていくか、今現在ではまったくもって???でして。

なんでこんなもん作ったかといえば、あれですよ、あれ。
★さまが、文献にあたれ、って。

作品理解には直接役に立ちそうもないことなんだけど、
へぇぇ・・・って思ったことがけっこうあるのね。
せっかくだから、そんなもんもボツにしないで何かの形で残しておこうかな、
って思ったのがきっかけ。
だから、お弁当箱のふたに付いてるご飯粒的内容です。
なんて言ったら元ネタの方に失礼か。
前言撤回。m(_ _)m

何かしょっぱなから前途多難な様相。
大丈夫かいな・・・
そんな暇があったら練習しろ?!
はい、ごもっともで。
反論の余地はありません・・・







◆夕鶴症候群


メタボ(リック)シンドローム(症候群)というのが巷をにぎわしているけれど、
「夕鶴症候群」などというものがあるんですねぇ。

  夕鶴症候群=1990年の言葉。
  はた目には恵まれたキャリアウーマンと見られていても、
  実は心の病を抱えて、心身症に悩んでいる女性
  (亀井肇『外辞苑』平凡社2000)。

認められたいがための無理がたたって、心身症になることを言うらしいです。
1990年というと、女性の管理職・総合職が話題になっていた頃か?
ということは、つうは心身症の症状だった訳?

最近は何でも「症候群」なる言葉を付けて片付けてしまう傾向が
あるように思うけれど、ネーミングしたらそれで問題が解決したような
錯覚に陥ってはいないだろうか。

ちなみに。
私が症候群−シンドローム−という言葉を知ったのは
「軽井沢シンドローム」(!←漫画です)と「ピーターパンシンドローム」から。
うう、年がバレるからこれ以上は言わないでおこう。







◆鶴女房に見る伝統的女性


「夕鶴症候群」なるものをカキコしたついで(?)に、
日本女性のタイプを分類したエッセイがあるのでご紹介。

日本人女性はタイプが以下の3つに分かれるのだそうだ。
 @鶴女房に見る伝統的女性
 A羽衣天女に見る一歩進んだ女性
 B乙姫様に見る現代の女性

@鶴女房型
  尽くすタイプ。結婚後、これまで自分がやってきたことを封印し、
  旦那様に、子供に尽くす、これまでの「主婦」タイプ
A天女型
  結婚してみたものの、自分の生き方を捨てきれず
  亭主の元から去るタイプ
B乙姫型
  結婚にこだわらず、子供も産まず、自分の仕事や好きな事をし、
  楽しく有意義な生活を送ろうとしている。

で、現代女性は「乙姫様になりたい症候群」なのだそうだ。
(またしても症候群)

おばばの主観的独り言。
子供は産めたら産んだ方がいいと思うよ。
なにせ、敵はこっちのペースに合わせてくれないもんね。
そういった生活を送る中で、人と協調していくこと、
その中で自分の時間を確保し、自分がやりたいことをするには
どうすればいいか、ということを身に付けていくような気がする。
育て方によっては、同志にもなるし。(対亭主?)

「乙姫様になりたい症候群」のエッセイは
慶応義塾大学大学院文学部の森山マリエさんのもの。
第5回GEヘルスケア・エッセイ大賞受賞作品で、
全文はhttp://www.gehealthcare.co.jp/company/essay/r_5a.html
で見ることができる。







◆夕鶴の里(その1)


社会現象に関する話題が続いたので、ちょっと目先をかえて。

「夕鶴」の舞台となったのはどこか、と探してみた。
作品では特に指定はないのですが、シーンなどから想像すると
「都から遠く離れた雪国」といったところでしょうか。
では、それはどこか?

木下順二さん戯曲『夕鶴』は、『佐渡島昔話集』の鶴の恩返しの昔話に
基づくそうです。
で、佐渡をしらべると・・・
あるんですねぇ。

   木下順二作「夕鶴」は「鶴女房」をもとに作られたのは有名な話。 
   それを記念して北片辺に石碑が建てられました。

というのを発見。石碑の画像は↓で見られます。
http://o-kichi.hp.infoseek.co.jp/buskitakatabe.shtml



ついでに、こんなもんも発見



佐渡で、昨年10月お亡くなりになった故木下順二先生を追悼しての公演。
「与ひょう」は角○和弘さんというテノール歌手だそうな。


 (続く)







◆夕鶴の里(その2)


その1で「夕鶴」は木下順二さんが佐渡の昔話を元にした、と
書きましたが、そのあたりを少々詳しく。

 佐渡外海府海岸の片辺(かたべ)地区に伝わる
民話がもとになっています。
鶴女房として伝わっていた民話ですが、似たような話は
全国各地で見られるようです。
 昭和11年、鈴木棠三さんが佐渡に来られ時採集したものを元に
木下順二さんが戦争中に「彦市ばなし」などの民話劇を書き始め、
そのうちの一編「鶴女房」が戦後改稿されて「夕鶴」となりました。 
 民話劇《夕鶴》は1949年10月27日 京都府船井郡丹羽町にある
天理教講堂で、「ぶどうの会」が初演(女優の山本安英さんが主演)。
その後この作品は、86年まで全国で1037回上演され、
これを元に團伊玖磨先生がオペラ化されたのは皆さんご存知の通りです。

佐渡は昔から鶴が多く飛来し、佐和田町真光寺金北山神社には
佐渡奉行が鶴の死骸を葬った碑が立っているそうです。
作中に子供たちが歌うわらべ歌に
「じーやんに着せるふとぬうの・・」(佐渡弁)
というのがありますが、これはその地でのお遍路さんの
謡っていた歌だそうで、原話は佐渡のものであることは
間違いないと思われます。
 また、相川の北方辺(きたかたべ)には、
罠にかかった鶴が助けられ、若い娘に姿を変えて老夫婦に
恩返しをするという鶴の民話も残されています。
鶴女房に似た雉女房という民話も片辺地区に伝わっています。

(続く)

<今日の話の元ネタ>
与太郎文庫
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/month?id=87518&pg=194905

佐渡夢紀行
http://www.sadoyume.com/densetsu.html







◆夕鶴の里(その3)


(その2からの続き) 佐渡に伝わる民話は、「鶴の恩返し」以外にも、 「おけさ伝説」や「安寿と厨子王」などがあり、 文学に取り入れられたものもある。 その一端は「佐渡歴史伝説館」(アドレスは↓)でも見ることができる。 なぜそのような多くの伝説が佐渡に残っていたのだろうか。 佐渡の地形的・歴史的要因が影響しているのではないか、と思う。 佐渡といえば「金山」と「流刑地」というイメージが強いが、 それだけではない。 大陸からの渡来人が作ったと思われる古墳も多く存在するし、 商品流通の西回り航路の中継点でもあった。 HN(ハンドルネーム):nanaさんによると、 佐渡の方言は新潟の言葉と違い、関西や北陸の影響が強いそうである。 以下、nanaさんのブログより引用させて貰う。  京の都から流人としてやってきた貴族や、  西回り航路の商人によりもたらされた言葉らしい。  文化も「日本の縮図」といわれ、3つの形態からなる。  ・流人となった貴族や知識人がもたらした貴族文化 (国仲地方)、  ・金山発掘に伴い奉行役人がもたらした武家文化(相川地方)、  ・西回り航路により商人がもたらした町人文化(小木地方)  新潟県に属しながらも、本土越後新潟とは  全く違った言葉と文化なのだ。  人の顔も所謂「新潟顔」とはちと違う。 こういった多様な文化が流れ込んでくる一方で、 人々の往来が、本土に比べ自由にならなかった「島」の特異性が 多くの伝説を今に伝えることとなった要因の一つであると 思ってもよいような気がする。 <今日の話の元ネタ> 佐渡歴史伝説館 http://www3.ocn.ne.jp/~srdk/ nanaさんのブログ:「リュックを背負うと元気になるの♪」 http://thaigogo.blog1.fc2.com/blog-date-200503.html







◆もう一つの夕鶴の里(その1)


新潟・佐渡の昔話を元に「夕鶴」は作られた、ということは これまで述べてきたとおりであるが、 「鶴の恩返し」「鶴女房」等として 日本のあちこちでその昔話を見ることができる。 佐渡以外にも「夕鶴発祥の地」を名乗っているところがあるので それをご紹介。  山形県南陽市漆山地区には、古くから鶴の恩返し伝説が  伝わっています。  その「鶴の恩返し」伝説は江戸時代の古文書に書き記されており、  記述としては日本で最も古いものです。  現在でも、漆山には、鶴巻田、羽付、織機川などの鶴の恩返しに  ちなむ古くからの地名が数多く残されています。  また、鶴の羽で織った織物を寺の宝物としたと伝えられる  「鶴布山珍蔵寺」という古刹があり、その梵鐘には鶴の恩返し伝説が  描かれています。 ということで、山形県南陽市漆山に「夕鶴の里資料館」がある。 http://www.city.nanyo.yamagata.jp/webs/rekisi/yuzuru/index.htm またこの資料館には、50年ほど前に日比谷公会堂で上演された 「オペラ夕鶴」の舞台が写真などで再現されているそうです。 (つう役は世界的なソプラノ歌手大谷冽子さん) (続く) <今日の話の元ネタ> 夕鶴の里資料館・語り部の館 http://www004.upp.so-net.ne.jp/will/yuzuru.htm 温泉のある風景(赤湯温泉) http://www.e-yamagata.com/top/meitou/akayu.htm







◆もう一つの夕鶴の里(その2)


山形の「夕鶴」の話を。 こちらの話では、主人公の名は「金蔵」。 鶴を助けるのだが、それは「あり金をはたいてその鶴を買い求め」とある。 (ちょっと浦島太郎寄りの話?) で、面白いと思ったのは、金蔵が女(鶴)に去られた後の話があること。 その後金蔵は感ずるところがあって僧となった。 (それで「金蔵寺」というお寺ができたようだ。) 金蔵が持っていたその反物を寺の宝物とし、 その後「金蔵寺」であった寺が、その宝物の名をとり、 「鶴布山珍蔵寺」と改め称したそうである。 この伝説では、女(鶴)が織ったのは「おまんだら」という反物だと女が 言ったとあるが、それは、仏教で言うところの「曼荼羅」のことであろうか? ちなみに曼荼羅とは、仏教(特に密教)において聖域、仏の悟りの境地、 世界観などを仏像、シンボル、文字などを用いて視覚的・象徴的に 表わしたもの。("Wikipedia"による) ちょっと法話っぽくもなくはないが、伝説を布教のために 利用するということは古今東西あることだし、 伝説そのものもその性格上、ご当地仕様になることは当然のことである。 一説では全国に百をこえる「夕鶴」があるそうだ。 それについてはまた後日。 <今日の話の元ネタ> 南陽市の民話と伝説 http://www.city.nanyo.yamagata.jp/webs/rekisi/yuzuru/003.htm 鶴布山珍蔵寺縁起 http://www.city.nanyo.yamagata.jp/webs/rekisi/yuzuru/004.htm http://www.yamagata-jc.ac.jp/huzoku/toshokan/minwa/mukasiattakedo/text/a-05.html







◆初演


さてさて、ここらでぼつぼつ作曲家の方にも目を向けるとしましょうか。 團伊玖磨さんの経歴的なことは、ちょっと調べればわかることだし、 ネットで検索すると何万とヒットする。 だから、ここでは触れないでおこうと思う。 まずはプレリュード的に。 夕鶴の初演は、1952年1月30日大阪・朝日会館 というのはすぐにヒットするし、 年表みたいなものにも記載されている。 では、初演のキャストは? これは意外とわかんないかも。 っていうんでご紹介。 初演データ とき:1952年1月30日  ところ:朝日会館(大阪) 藤原歌劇団 公演 指揮:團 伊玖磨 演出:岡倉 士朗 装置:伊藤 熹朔 照明:穴澤 喜美男 オケ:関西交響楽団 キャスト つう:原 信子/大谷 冽子 与ひょう:木下 保/柴田 睦陸 惣ど:秋元 清一(のち雅一朗に改名) 運ず:藤井 典明 児童合唱:めぐみ会児童 公演はデータによると、1月30日〜2月6日とあるが、 このうちに何回上演したかまではかかれていない。 でもかなりの回数でしょうね。だからダブルキャスト。 このうち30日は團先生が著作の中で、 「(原さんには)私のオペラ『夕鶴』の初演で"つう"を演じて いただきました」 と書いているので、多分、原・木下コンビだったんでしょうね。 この人たちがどういう経歴かまでは書きません。 興味のある方、検索してみてください。 けっこうヒットしますよ。 蛇足ながら。 このキャストで2月11日〜13日に東京公演を行っています。 場所は日比谷公会堂。 オケだけは東京フィルハーモニー交響楽団になってます。 それから、この一連の公演は、大阪・京都・東京合わせて 15回(!)行われたそうです。 <今日の話の元ネタ> 團 伊玖磨著「日本人と西洋音楽―異文化との出会い―」   日本放送出版協会(1997年) 日本初演記録 http://www006.upp.so-net.ne.jp/ch-seiji/index.htm <補記> その後、公演日について以下のようなことがわかった。 大阪公演 1月30日〜2月6日       2月2.3日は昼夜2公演・・・計10公演 京都公演 2月7日        ・・・ 1公演 (幸楽会館) 東京公演 2月11日〜13日       2月13日は昼夜2公演・・・・計4公演                 合計15公演 それから、「つう」役の大谷が2月11日、自動車事故に遭い、 以後は原が一人で務めたそうである。







◆團伊玖磨が語る夕鶴(その1)


作曲者團伊玖磨は、夕鶴をどう捕らえていたのか。 團伊玖磨の自伝からそのあたりを探ってみたいと思う。 以下は「青空の音を聞いた」からの引用である。  さきに演劇「夕鶴」の劇音楽を作曲して、何十回もその演奏に  従っているうちに、この戯曲こそ、現代の日本のオペラとして  世界に出すことの出来る思想内容を持った作品だと信じるよう  になった。作者の木下順二さんに懇願して許しを貰い、作曲を  始めたのは昭和25年の夏の事だった。  (中略)・・・・・作曲が難航した理由はオペラは劇音楽ではないの  点であった。既に僕は劇音楽の作曲には馴れていた。然し、  劇音楽の方法論では無く、音楽作品としてオペラを書くためには、  寧ろその馴れを追放せねばならなかった。劇音楽ならば、その場  その場の音楽が効果を持てばよい。然し、音楽作品であるオペラ  は、たとえ演技面を払拭して音だけ鳴らしてもその一時間なり  二時間が「音楽」として感動を呼ぶだけの質と密度を持たなけれ  ばならないのである。その密度を作り上げ、質を創造する事がそ  の当時の僕には至難のトライアルだったのである。(中略)  ・・・・・オペラ「夕鶴」は藤原歌劇団によって初演の夜を迎えた。  未だ朝日会館には暖房も無く、聴衆は外套に身をくるみ、舞台上  の歌手の吐く息が白く見えた。生まれて始めてのオペラ、そして  これ又始めてのオペラの指揮。僕は極度の緊張でがたがた震えな  がら指揮台に立った。寒さも震えの原因の一つだったけれど―。    (続く) <今日の話の元ネタ>  團伊玖磨著「青空の音を聞いた―團伊玖磨自伝」    2002年 日本経済新聞社







◆團伊玖磨が語る夕鶴(その2)


(その1からの続き) こうして世に出た「夕鶴」だが、そこでの山田耕筰さんとの エピソードに次のようなものがある。   オペラ「夕鶴」の作曲中、僕は何度も山田耕筰先生と議論を交わし  た。山田先生は日本語の作曲は日本語のイントネーション(抑揚)にし  たがって、旋律の動きを作る可きであるという理論を信じておられた。  しかも、その日本語のイントネーションとは標準語の抑揚に限るという  のである。   僕の理論は、確かに日本語は強弱の言葉では無く抑揚の言語である  から、抑揚の尊重は判るけれども、それとて例えば一番の歌詞が山で始  まり、二番の歌詞が海で始まるような場合は、ヤマは尻上がり、ウミは  尻下がりだから、音楽的統一のためには、尻上がりでも尻下がりでも無  い第三の方法を考える可きだし、もっと錯覚を利用した方法、例えばえ  らく細かく音を動かすとか、その逆の方法を執るとか、色々な可能性が  考えられるというのである。山田先生は、いや、そうした場合は一番の  旋律と二番の旋律を変えるか、詩人に言って詩を書き変えさせろ、と乱  暴な事も言われるのだった。   殊に大議論になったのは標準語の問題だった。僕は、「夕鶴」のよう  に、主役のつうだけが標準語、あとの農民は木の下式の田舎言葉を話す  作品では、原作が意図しているその対照を現すためにも、田舎言葉の抑  揚を生かす可きだと言い、先生は、いや、いかん、何が何でも標準語  だ、これは国家の定めた法則だと譲らないのである。(中略)     オペラ「夕鶴」の東京での第一夜の招待席には山田先生の顔があっ  た。  (中略)幕が降りた時山田先生は黙って帰ってしまわれた。(中略)  二日目の夜、意外な事が起こった。指揮台に上がった時、すぐ近くの  客席に山田先生の顔を発見したのである。招待状を出しても仲々現れる  事の無い山田先生が、招待もしないのに又現れた事を僕はいぶかった。   幕が降りた時、先生は上機嫌で楽屋に現れた。そしてこう言われた。  「昨夜は殆ど眠らないで考えた。そして今夜又聴いた。そして、君の  言っていた意味が判った。君の方法で良いのだ。さ、すぐこの足で檜町  に行こう。一緒に乾杯だ」(後略) 山田耕筰さんの言っていた「君の方法」とはどういうものなのか、 次回はそのヒントを探ってみたい。 <今日の話の元ネタ>  團伊玖磨著「青空の音を聞いた―團伊玖磨自伝」    2002年 日本経済新聞社







◆音楽と言葉(その1)


團伊玖磨が作曲に生かした「言葉と音楽のシステム」とはどういうもの なのか、それを探っていこうと思う。 團伊玖磨が著書の中で、それについて言及している箇所がある のだが、それは山田耕筰について述べた章の中にある。 長くなってしまうのだが、まず、團伊玖磨の師でもある 山田耕筰の、「抑揚」「一音符一語主義」から順を追って進めたい。 以下は團伊玖磨の著書「日本人と西洋音楽―異文化との出会い」 からの引用である。  (前略)  作曲家としての山田耕筰の特徴は、このドイツで学んだ作曲理論を  しっかり踏まえて作曲を行おうとしたことで、これが従来の作曲家と  まったく異なる点でした。例えば、歌を作曲しようとする場合、  従来の作曲家は漫然と言葉に節(ふし)をつけようとしました。  江戸時代に作曲のことを「節づけ」といった、そのままの作曲態度  です。これに対して山田は、言葉に節をつけるにあたって、「どの  ように節をつけるべきか」についての理論(セオリー)を自ら考え  ようとしたのです。   そして山田は、作曲の視点を「日本語の抑揚」、つまり言葉の  上がり下がりにおきました。彼はこう考えたのです―自分のよく  知るドイツ語を含めて、ヨーロッパの言語はほとんど強弱で表現  する言葉だ。名詞には冠詞がつくが、例えば英語のア・ドッグ  (a dog)なら、アは強く言わず、ドッグを強く言う。ところが、  日本語には冠詞がないため、最初の弱拍がなく、いきなりイヌと言う。  そうなると、日本語では強弱で楽曲を構成していくことはできない。  では、何に拠るべきか。それは、高低だ、と。   日本語のもつ抑揚、これが彼の発見でした(ちなみに、日本語の  高低について、よくアクセントといいますが、これは強弱のことで、  イントネーションというのがほんとうでしょう)。(中略)   つまり「この道はいつかきた道」を声に出して読んだときの言葉の  抑揚にメロディーライン(旋律の流れ)の抑揚を一致させるように作曲  していくことが、音楽のなかで日本語を生かすことだと考えたのです。  言葉の抑揚に旋律の抑揚を合わせる―これが、山田耕筰の作りあげた  作曲理論でした。 (続く)







◆音楽と言葉(その2)


山田耕筰が考えた「一音符一語主義」。 それについての、團伊玖磨の考えを追ってみたい。 以下、著書「日本人と西洋音楽―異文化との出会い」からの 引用である。   山田耕筰の考えた理論は、ひとつの確固たる方法論として、  たしかに新しい作曲の方向を照らす灯になりました。しかし、  これですべてが解決してしまうというわけにはいかないのです。   抑揚をはっきりさせるためには、ゆっくり歌うということが  前提になります。しかも、だれにでもよく分かるようにしてやろう  という、明治人特有の一種の教育的な傾向が山田の意識のなかに  あるため、それが推しつけがましくなっていくのです。その例が  「一音符一語主義」です。これは、文字通り一つの語に一つの  音符をあてはめることで、「この道はいつかきた道」なら  コ・ノ・ミ・チ・ハ・イ・ツ・カ・キ・タ・ミ・チの12の音のそれぞれに  一つずつ。計12の音符がつくことになります。この方法は、  ゆっくりしたモデラート(中庸の速さ)の場合には適合しますが、  より速い言葉、より速い音楽の動きを生まなくなってしまいます。  つまり、詠嘆的な詞に作曲する場合にはいいのですが、激昂したり、  憤慨したり、戦ったりというようなことには、まったくそぐわない。  いつもぬるま湯につかっているような快感に終始するのです。  (中略)   そういった山田耕筰の作曲法の典型例を、歌劇に見ることができ  ます。歌劇では舞台上で人間のあらゆる感情の綾が演じられます。  (中略)山田耕筰最大の作品である歌劇「黒船」(1940)のなかに、  主人公である唐人お吉が、アメリカ領事ハリスに身を許すかどうかで  煩悶する場面があります。お国のためにはハリスの要求に従うべきか  もしれない、しかしじぶんは女として好きな人もいる、どうしたら  いいだろう、と悩み、「姉さん、教えてちょうだい。私、どうしたら  いいの?」と訴える場面です。ところが、この切迫した気持ちの場面で  お吉は少しもあわてず騒がず、「ねーさんおしえてちょうだいなー」  と歌うのです。これは、感情のテンポからは、明らかにおかしい。  しかし、山田耕筰はおかしいとは思わないのです。というより、  おかしいと思ってはいけないのだという立場を貫きます。すなわち、  「一音符一音主義」という自らの作曲のセオリーに殉じるわけです。 (後略)







◆音楽と言葉(その3)


山田耕筰の「言葉の抑揚と音楽の抑揚の一致」と 「一音符一語主義」を受けて作りあげた團伊玖磨の「システム」とは どういったものなのか。いよいよ核心の部分ですが、 まずはその前半部分を。   (前略)   「私はあなたを愛します」という言葉を音楽にするとき、英語なら、  「I・love・you(アイ・ラブ・ユー)」と3つの音符、フランス語なら  「Je・T'aime(ジュ・テーム)」と2つの音符で書くことができるのです。  それを「一音符一語主義」でやると、13個の音符が必要になる。  このことは、ある一定の時間内では、日本語は外国語に比べてより少ない  内容しか伝えられないということを意味しています。私は自作のオペラ  「夕鶴」を英語に訳したことがありますが、ある旋律内で言うべき歌詞が  すぐに終わってしまうので、もう一ぺん繰り返そうとか、大いに苦労した  おぼえがあります。逆に、外国のオペラを日本語に訳すと、内容を充分  言い終わる前に曲が終わってしまいます。このことは、東西の音楽の  融合という観点からは、ぜひとも解決しなければならない問題ですが、  解決策はまだみつかっていないのが現状です。   また、日本語の抑揚についても、私はかつて山田耕筰本人と何度も  議論したことがあります。私の言い分はこうでした。   「山田先生のおっしゃる抑揚は、東京の言葉でしょう。僕は、もっと   全国的に考えたほうがいいと思います。例えば大阪では、言葉の抑揚   は東京とまったく逆になる場合もありますが、これはどうお考えに   なるのでしょうか。それぞれの地方の抑揚に則って作曲すれば、   いろいろなスタイルが生まれて面白いと思います。」  これに対して山田耕筰は、東京の山の手言葉を中心として標準語とする  と"政府が定めて"いるのだから、それに則るべきで、地方語は認める  べきではない、と答えたものです。("その4"に続く)







◆音楽と言葉(その4)


"その3"からの続き。 後半部分です。   日本語では、助詞(テニヲハ)のつき方の高低で、多くの意味を  伝えています。例えば、「花が赤い」のハナと「鼻が赤い」のハナの  イントネーションは、微妙にちがうと思いますが、録音をしてみると  ほとんど区別がつきません。これを、なぜ聞き手はまちがわないのか。  それは、「が」という助詞のつき方がちがうからです。ハナといった  あとに「が」が高くつけばまえのハナは「鼻」のことです。逆に「が」が  低くつけば、そのハナは「花」なのです。このように、助詞の高低の  ちがいで意味を伝えていく場合が、日本語にはたくさんあります。  そこに注意をはらいながら日本語の高低を聞いてみると、東京語であれ  大阪語であれ地方語であれ、それぞれ言葉のつながり方に「システム」の  あることが分かります。   (中略・山田耕筰が「夕鶴」初演の二日目に楽屋に来て、「君の    言っていたことがわかった」と言ったというエピソード=「團    伊玖磨が語る『夕鶴』その2」を参照=を受けて)  これはどういうことでしょうか。おそらく、「夕鶴」のなかで、私が  私なりにことばと抑揚についてひとつの「システム」をつくりあげて  いたのに気づいたからだと思います。(中略)   民族性というものは言葉にある、というのが山田耕筰の持論でした。  民族音楽の妙味は言葉と音楽の結びつきにあり、踊りのリズムなどに  あるのではないというのです。つまり、ロシアの音楽はロシア語と切り  離すことはできず、シューベルトの音楽とドイツ語、ヴェルディの音楽と  イタリア語も切り離せない。だから、自分の音楽も日本語と切り離せない  のだ、と言っていました。これは正しいと私は思います。(後略) 4回に分けて引用した團伊玖磨の著書: 「日本人と西洋音楽―異文化との出会い」は 1997年4月から6月までNHK教育テレビで放送された 「人間大学」(全12回)のテキストとして執筆・出版(日本放送出版協会) されたものである。 その後1999年に日本放送出版協会より「NHKライブラリー」の一冊として 出版されたようである。 その出版時の書名は 「私の日本音楽史〜異文化との出会い 」となっていることをお断りしておく。 引用したものは、1997年のテキスト版である。







◆子供の遊び:「ねんがら」


真面目な話題が続いたので、ちょっと息抜き。 オペラは子供たちの歌声から始まって、 ほのぼのとした雰囲気をかもし出している。 子供たちと与ひょうの掛け合いの歌にこういうものがある。 「何して遊ぶ?」 「ねんがら」 「うた」 「かごめかごめ」 「鹿、鹿、角何本」 「ようし、ゆくぞ」 ここに登場するものはすべて子供の遊びのことを言っているのだが、 「うた」「かごめかごめ」は皆さんお分かりだろうと思う。 では「ねんがら」「鹿、鹿…」は? 私には?な遊びであった。 なもんで、どういう風に遊ぶものをいうのか、 他の地方ではどういう言い方をするのかを調べてみた。 まずは「ねんがら」から。 ねんがら・ねんがら打ち・念木・ねっき・ねんぼう・ 笄(こうがい)打ち・つくし打ち・ねっくい・ねんがね・ ねん打ち・釘うち・ねぎごと ざっと調べただけでも、いろいろな呼び方が出てきた。 それだけこの遊びが全国的にあるということなのであろう。 <遊び方> それぞれの土地土地でルールは違うようだが、柳田国男によれば  「カタカナの『イ』の字を逆さにしたような木の鉤(かぎ)の先を  尖らせたものを、柔らかい田の土などの中に打ち込んで、相手の  立てたのを倒す遊び」 だそうである。 関東とその周辺では「ネッキ」と呼ぶところが多いそうで、 北陸方面では「ネンガラウチ」という村の鎮守様のお祭りの 日の遊びとされていた所もあるようである。 「ネンウチ」は「念打」と書くべきものかもしれない。 前出の柳田国男によれば、正月の鬼打ち神事の一部として 形が残っているようである。 多分、月々の吉凶を占った名残ではないか、というのが 柳田の説である。 また、「ネギゴト」とは「禰宜事」と解釈できるのではないか とも述べている。 そういえば、私が小学生だったころ(昭和ン十年代)、 男子が砂場で5寸釘を投げ刺して遊んでいたのを思い出した。 多分「ねんがら」の類であろう。 確か「釘刺し」と言っていたような気がする>遥か昔 <今日の話の元ネタ> 長崎文化ジャンクション 長崎文化百選 http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kaigai/092.html 柳田国男著「こども風土記」  1976年 岩波文庫版







◆子供の遊び:「鹿、鹿、角何本」その1


この遊びのことから柳田国男の「こども風土記」は始まっている。 なもので、すぐにその姿がわかるものと思っていた。 ところが、「よくわからない」と柳田は書いていたのであった(!) 世の中、探せばいろんなものが出てくるもので、 「民族遊戯大辞典」なるものがあって、その記述が一番シンプルで わかりやすいと思うので、長くなるが引用する。  (「あてもの遊び」の項、途中から)   こどもがおこなう「鹿、鹿、角何本」も数あて遊びの一種である。  相手の背中に指を立てて、「鹿、鹿、角何本」ととなえながら軽くたたき、  立てた指の数をあてさせるのである。あるいは、両手を壁や樹にもたせ  腰を曲げて馬になった相手に飛び乗り、同じようにとなえて指の数をあて  させる仕方もある。この遊びはヨーロッパにとりわけ濃密な分布をもち、  ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ギリシア、セルビア、  トルコ、ヘルツェゴビナ、エストニア、スペイン、ポルトガル、イギリス、  アイルランド、スウェーデンにおこなわれる。また、移民によってアメリカ  合衆国にも持ち込まれた。すでに古代のローマ帝国ネロの時代に活躍した  ペテロニウスの著作の中にこの遊びが記述されていることから知ることが  できる。ヨーロッパ中世ではブリューゲルの「子どもの遊び」の中にこの  遊びが描かれ、「牡山羊、牡山羊よ、ふらつくな」の名をもっていたという。  そこでは、木材の上に腰をおろした男の子のひざの上に、別の男の子が  頭を乗せ、腰を曲げて馬をつくる。さらに別の男子が前者の股に頭を要れ  2番目の馬をつくる。そこに、別の2人が跳び乗り、後ろの子が指を立てて  「ふらつくな、牡山羊よ、ぼくの頭に何本の角があるかい」と聞く。馬が  うまくあてることができれば、乗り手と交代する。    「鹿、鹿、角何本」は日本にもおこなわれる。しかし、江戸時代までの 文献にこの遊びの記述をまだみないことから、明治時代以降に伝来したもの  かもしれない。   「鹿、鹿、角何本」は指の数をあてる遊びであるが、そのヴァリエー  ションに、指とてのひらとでつくるさまざまな形をあてる遊び方がある。  (後略) (続く) <今日の話の元ネタ> 柳田国男著「こども風土記」  1976年 岩波文庫版 「民族遊戯大辞典」  1998年 大修館書店







◆子供の遊び:「鹿、鹿、角何本」その2


(その1からの続き) ここで柳田国男の名誉のために記して置くが、柳田は決して 「鹿、鹿、角何本」をよく分からないままにしておいたのではない。 この「こども風土記」は、朝日新聞連載のものをまとめたものである。 で、後述で何回かに分けて、読者からの手紙なども含め、 考察して、全容がわかるまでに「こども風土記」の中で述べている。 その中で、「民族遊戯大辞典」でもあるように、 単なる数を当てる遊びと、馬乗りの形をとるものと、両方記述されている。 ちなみに、私の里ではこの馬乗り型の遊びを"長馬(ながうま)"と呼んで、 私もやった経験がある(じゃじゃ馬の証?)が、勝負はじゃんけんであり、 数当てではなかった それから、由来については面白いことが書かれている。 そもそもこの「鹿、鹿、角何本」を取り上げたきっかけになったのが、 アメリカ・ミズリー大学からの問い合わせだという。 「How mary horns has the buck?」 (牡鹿は何本の角をもっているか?) と唱える遊びが日本にもあるか、というものだったそうだ。 柳田の調査が進むにつれ、明治初年に教育を受けたという 女性からの聞き取りとして、 「来ていた米国人の教師が子ども好きで、あちらの遊びを たくさん教えてもらったが、これもその一つであった」 というのがある。 唱えることばも、場所場所により変化していくのは当然のことながら、 山梨・富山・神奈川などでは 「鹿よ、鹿よ、汝の角は幾本なりや」 などという、一昔前の(その当時は新しい口語書体とされていた)、 外国文学を翻訳したと思える口調のものさえ残っていたそうである。 そういうことから考えて、外来の遊びと考えてもよいのではないか、 と思う。 受け継がれるうちに、唱える言葉もだんだん省略され、 「鹿、何本」「鹿、なんぼ」「しからんち」などとなっていった ものではないか。 柳田の「こども風土記」を読みながら、そう思った。 しかし、木下順二は、どの形の「鹿、鹿、角何本」を 想定して書いたのだったんだろう? <今日の話の元ネタ> 柳田国男著「こども風土記」  1976年 岩波文庫版 既存イラストコラム見本 日本の伝承遊び▼【うま飛び】 http://toki.cool.ne.jp/column/asobi/asobi.html







◆内田義彦との対談:その1


しばらくまた硬い話題が続きます。 木下順二が内田義彦と対談したものが活字になって出版されています。 内田義彦(うちだよしひこ、1913年2月25日 - 1989年3月18日)  専攻は経済学史、社会思想史。経済学博士。  アダム・スミス、カール・マルクスと、近代日本思想史の研究で知られる。  著書『社会認識の歩み』で、歴史認識と現代認識の関係、理念とハウ・トゥの  関係、本の読み方について、を論じて、日本における社会科学的認識について  考察している。("Wikipedia"による) その中で、「夕鶴」に関して木下自身が語った、たいへん面白い部分が あるので、それをご紹介したいと思います。 対談の中で木下は多くのことを語っていますが、直接「夕鶴」に関することと しては、以下の3つに絞られるのではないかと思います。  1.異質・断絶  2.自然人の3つの類型  3.聖なるもの このうち今回は1.異質・断絶について 1.異質・断絶 (1)異質の世界の表現 「夕鶴」の場合だとね、あのつうっていう女性とほかの男たちが異質なわけ なんだ。(中略) (「夕鶴」の)書き直しを思いついた時に、同時に、方法としてことばを分ける、 つまりつうの場合はけっして標準語っていうんじゃなくて、何か純粋な日本語の ひとつのあり方。 そして男たちのほうは、日本語のある意味での共通語的形態というか― 方言の要素をいれてきて、そしてどこへ行っても通じる共通の、 まあ民衆的なことばっていうかな、それを作る。 この二つを表現として書き分けることによって、二つの別な世界ってものを 表現できるのではないか というアイデアが浮かんだ。それから、それを考えていくなかで、もう一つ、 次元の違った世界、人間の表現としては、お互いのことばがわからなくなると いう、おんなじことをしゃべっているのに、ある瞬間から決定的にわからなく なるという断絶、というアイデアを考えて―だから、それを裏返して言うと 前に書いてた「鶴女房」って作品では、筋やなんかはちっとも違ってないん だけども、そういう断絶とか異質ってことを、表現としては達成しえて なかったんでしょうね。 (2)断絶―「覗く」という行為  あのね、覗かれて困るってことがあるんだけど、それが倫理としてね、 成り立つのかどうか。 それが単なる感覚とかね、感情じゃなくって、倫理としてね、おそらくあると 思うんだ、非常に厳しくね。 そういうものが、民話のなかではただの話みたいに出てくるんだけど…。  それが農民のなかの表現だと、民話ってのは語り伝える話しに過ぎないわけ だから、そのなかでは至極単純な素朴なものとしてね。  ぼくは、「夕鶴」を書いた時は、本当のことを言うと、覗くってことには それほどアクセントおかなかった。その前の異質、それから断絶ということね、 そこにアクセントがあって、書いた時には、覗くってのはモトの話があるから 書いたようなもんだ、極端に言えばね。 (続く) <今日の話の元ネタ> 内田義彦著作集 第7巻より「『夕鶴』をめぐって」  1989年 岩波書店  







◆内田義彦との対談:その2


2.自然人の3つの類型 内田義彦が木下順二と対談しながら、木下の作品に登場する人物像を3つに 分類している。 対談の中で断片的に出てくるその話題をまとめてみた。 「自然人」というのは、ここでは法律用語でいうところの「人」のことではなく、 (法律用語としては講学上「自然人」と呼び、法人や団体の対義語である。 法律における人=ひと=には、自然人と法人の二種類がある。"Wikipedia"による) 極論すれば、「木下作品をはじめとして民話等に登場する庶民的エネルギー、 あるいは超自然エネルギーを持った人格像(それは人間であることもあるが、 もののけ等人間でないこともある)」 といっても間違いではないのではないか、と私は考える。 が、詳しく説明することは避ける。 というのも、それをはじめると、民話・演劇全般をも含んだ、 ドラマトゥルギーまで踏み込まないと説明できないことが多々あるからである。 ご興味のある方は、是非元ネタとした「内田義彦著作集」をはじめとして、 「木下順二作品集」(内田との対談はこちらにも収められている)などにも 目を通してみることをお薦めしたい。 前置きはこれくらいにして、本題の人物像について。 (1)第1類型 代表するキャラクター:寝太郎・彦一 けしからんこともあってモラリッシュに考えるとつじつまが合わなくなるが、 もともと中立。 木下は「民衆の知恵」と述べているが、エネルギーがあり、現状に押しつぶ されているけれども、それを手玉にとって、とにかく生きている。 生きていることがそれだけで完結したひとつの意味を持っている。 (2)第2類型 代表するキャラクター:つう・「おんにょろ盛衰記」の老婆・「二十二夜待ち」の 老婆 人間でもあるが、同時に超自然的なものでもある、といったもの。 自然人が、人間の要素を持っているもの。 (3)第3類型 代表するキャラクター:与ひょう・おんにょろ・藤六 人間の姿で出てくるが、第1類と違ってそれ自体独立した人間ではない。 近代社会と縁が切れていて、切れているところで第二類型の自然人と 接触点を持つ、あるいはその用意のある人間。 人間の姿をしているので、第1類型と同類とされやすいが、 第1類型と違って、知恵とかの要素が意識的に捨象されている。 第2類型と一緒になって「知恵とは何か」という問題を突き付けたりする。 さらに内田はこの3つの類型を分類するにあたって次のように述べている。  仮にこの三つの系列を二つにしぼるとすれば、「第1・3vs第2」の  超自然的なものに対立させるより「第1vs第2・3」の、一方に庶民たる  第1類、他方に非社会的存在たる第2、第3類を置いて考える方がいい。  第1類の自然人は社会的階層として知識人と庶民との違いが意識されている  ところに発し、第2、第3類のそれは知識人それ自身の中にある圧制された  自然の意識から生まれていると言っていい。 (続く) <今日の話の元ネタ> 内田義彦著作集 第7巻より「『夕鶴』をめぐって」  1989年 岩波書店







◆ 内田義彦との対談:その3


3.聖なるもの 長くなるが、前置きとして上原專祿(注:1899年ー1975年 歴史学者。 専門は中世ヨーロッパ史。"Wikipedia"による)が述べている文章の部分を 引用したい。  一体「夕鶴」は私にとっては悲劇そのものでもなければ、喜劇そのもの  でもない。悲劇と呼ぶにしては、つうは当初から余りにも超俗的であり、  喜劇というにしては、与ひょうは終始余りにも愚直であるからである。  さればといって「夕鶴」は、メルヘンめいた美的ファンタジーを情緒的に  うたいあげた夢幻劇とも受けとれない。実践倫理への顧慮が巨細に払われて  いるからである。それでは一体「夕鶴」は何をもって観衆に迫ってくるので  あろうか、それはどのような内容で特に私に迫ってくるのであろうか。   思うに、私をもっとも感動させるのは、およそ汚濁、野卑、打算と呼ば  ねばならぬ一切のものに根源的に対立するところの清浄、典雅、純粋と  いうものの、痛ましい運命の実現である、と一応はいえるであろう。  しかしながら、より深く私を打つものは、そのような運命の実現にも拘らず、  一切のものを雰囲気と情緒において――たとえ原理と意味においてでは  ないにしても――制圧し尽くすところの清浄、典雅、純粋の絶対的優越の  実証である、といわねばならない。痛ましい運命の実現そのものが私を  打つというよりは、清浄なる物の完璧な実証が私を感動させるのである。  観衆はつうと与ひょうの運命のために悲しむというよりは、清浄なるものが  余りにも清浄なることに全心が領有せられるのである。  そのような清浄の実証に触発せられて観衆は、日常の生活体験の中では  容易に自覚しえぬところの、俗的価値に係わりのない、ある浄められた  心情の生起を経験せざるをえないであろう。それは美意識そのものでも  なければ、倫理感情そのもでもないであろう。  それは、美意識や倫理感情よりも、更に静かで、更に深い「聖」の意識と  名付けられるべきものであるに違いない、とわたしはいいたいのである。 これは未来社から出版されている「夕鶴」の中で上原が述べていることの 部分なのだが、それを受けて、内田義彦と木下順二の対談が進んでいる。 内田が述べていることを引用する。   西洋人に天使が天使として現れてよいように、鶴は鶴でいい。  だいたいアニミズム的世界の解釈の仕方それ自体に誤りがあると思うんだ。 (中略)   田中正三(注:政治家。栃木県の人。1841〜1913 1890年(明治23)  以来衆議院議員に当選。足尾鉱山の公害問題解決に努力。1901年直訴。  以後終生治水問題に意を用いた。)の歌にね、川のいうことも聞かないから、  川が怒っているという歌があったと思ったね。川の怒りが田中正三に  のり移ってるような激しい歌だ。川の言うことを聞けというのは川が一つの  生きものであって、意思を持っているというところで考えるとアニミズム的  要素もあるんだろうけども、そういうかたちで、自然法則みたいなものが、  無条件的に従わなければならんそういうものの存在が確認されてきた。  いや、客観的な自然法則が認識されるというだけでなくて、為政者といえ  どもそれに従うべきおきてが存在することが確認されてきた。「法に叛い  ても道には叛けない」というかたちで、神的なおきての惣菜が確立され、  その道の中身が、自然を心にし、あるいは古人の心を心にして探求されてきた。 (中略)   いや、神といえどもおきてには従わんならん、そういうもんだね。 (中略)   理神論の場合には神だが、「夕鶴」の場合では鶴が神的なものになって  いる。たまたま与ひょうが親切にした――親切というような反省の伴った  ことではなく、ごく当たり前に困っていたから助けてやった。そこでひょっ  こりつうは与ひょうの前に降りてくる。そういう瞬間は誰にでも起こりえる  んで、そういう瞬間がつづく間だけ、つうは同時に人間でありうるわけだ。  しかし与ひょうは――これまた必然に――つうの世界を離れてゆく。  その離れていく与ひょうにつうはついていこうとするけれども、おきてを  破ることは、つうにはできない。  与ひょうといっしょに人間としていつまでもいたいということがつうの  願いであっても、おきては破れない。つうの上に神があるというのでは  なくて、つう自身が神だから。自分自身に矛盾することはできない。  ただ悲痛な願いを込めた贈り物を織り上げ、よたよたと飛び去ってゆくだけだ。 (中略)   鶴を人間に近づけて理解するということは、あのドラマの全体を  人間の世界として理解するのをむしろ妨げるもんじゃないか。  何かナチュラルにね、鶴でいい。  ちょうど西洋のばあい(のように)、ごくナチュラルに(天使は)天使であって  いいと思うんだ。 <今日の話の元ネタ> 内田義彦著作集 第7巻より「『夕鶴』をめぐって」  1989年 岩波書店 綜合版夕鶴  1953年 未来社 田中正造と明治維新 その1 「部落学序説 第4章A節 『非常民』から『常民』へ、その精神的葛藤」より http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/cat6421399/index.html







◆セリフと音楽


オペラ「夕鶴」の中には、セリフとしていう部分がある。 運ず「へぇ、おらぁ向こう村の運ずっちゅうもんで…」 惣ど「そんで、なあかみさんよ…」 という始めのほうの、つうとのやりとり。 そしてクライマックス前半の与ひょうの 「今度は前の2枚分も3枚分もの金で…」というせりふ。 この部分だけどうして音ではなくて、セリフとして入っているのか、 不思議に思っていた。 見ている(聞いている)人に、内容をはっきり伝えるため? 進行を速くさせるため?―まさかね。 團伊玖磨の対談録を読んで、なるほど、そういうことなのか、 と思った(今更、です。勉強不足を露呈してますな)ので、 その部分をご紹介。  与ひょう、つう、悪人と小悪人その4人の性格のどこに音楽的中心をおくか  ということが一番大切なことだと思うのです。  例えば言葉が通じないという一つの問題が起こっても、  つうは動物の化身だから惣どの言葉が通じないのか、  運ずは非常に悪い人間であるから純粋な人間つうには言葉が通じないのか、  そこの解釈をはっきり決めて考えなければいけない。  そこで欲に絡んだところだけがオペラではセリフになっている。  音楽で語られないからつうにはわからない。つう、与ひょうというものは  この純粋性は音楽にでなければ感じないようにつくりました。  ところがそれがどの程度表現出来たか、そこに問題があるのだと思います。  単なる善玉悪玉の劇にしたくありませんでしたので。 なるほど。 そういう作曲者の意図があったのね。 つうの言葉は音楽、か。 <今日の話の元ネタ> 綜合版夕鶴  1953年 未来社







◆朝日新聞土曜版:「愛の旅人」


朝日新聞は土曜・日曜と別冊が入るのだが、 2007年2月24日の土曜版に「夕鶴」が取り上げられていた。 その記事をめぐって、HN:タカマサさんが「戯曲『夕鶴』と資本主義」と 題して、以下のような感想を述べられている。 無断引用です。すいません。


  

今週の『朝日』の土曜版「be on Saturday」の「愛の旅人」は「つうと  与ひょう 木下順二『夕鶴』」。   木下順二「夕鶴」は、その一部が国語教科書の定番ともいえる作品と  して、有名だ。   朝日の土曜版は、木下が取材した民話の故地であり、鶴の代表的飛来地  でもある佐渡島を中心に、純愛と物欲の相克という、まあ定番のテーマ  にスポットをあてている。  (中略)   文芸作品なので、その解釈を一義的に収斂させていくという作業は  不毛であり、それこそ反文学的行為といえるだろう。  その意味で、「最後につうが与ひょうの元を飛び去ってゆく姿に悲しみ  ではなく、むしろ救いを見る。……現実には女が男に裏切られ、痛めつ  けられたと思っても、つうのように飛んでゆけない。しがらみや後腐れ  がつきもの」といった感情移入にチャチャをいれるのは、おとなげない  だろう。   しかし、「『さよなら』と言って飛んでゆけたら、という誰もが隠し  持つ思いを物語の結びに織り込んだことで、多くの人の共感を得た」とか、  「金に目がくらんだ男と、愛のために身を削った女の物語は、21世紀  という時代に照らされ、新たな光を放つ可能性がある」といった位置づ  けについては、正直カンベンしてよ、といいたくなる(笑)。 (中略)  つくすオンナと わがままなオトコといった、陳腐なとりあわせを、  舞台装置だけキレイに 美化したところで、異性愛と物欲なんて本質に  せまることなんて できないとおもう。   木下順二たちが自覚のないまま、いや おそらく直感的に把握しつつ  象徴的に表現していた図式は、明快だとおもう。  @自然および最下層=第一次被搾取層を象徴する「つう」。  A自然を搾取しつつも、等身大の環境適応を実践し、同時に商業資本に   搾取される農山村の庶民層を象徴する「与ひょう」  B農山村を搾取する商業資本のてさきとして暗躍する媒介者の二類型   (罪悪感の有無)を象徴する「運ず/惣ど」  C商業資本を最大限に活用することで罪悪感などおぼえずに、農山村とは  無縁なかたちで栄枯盛衰をくりかえす都市住民(農村部のオトコどもを  たぶらかす「都」)。…といった感じにまとめられるか?   要するに、「夕鶴」という、はなはだ都市的な視線による演劇・戯曲  は、都市住民の無意識的な罪悪感が基盤なのだ。   なかでも、大都市のオトコどもは、自然はもちろん、農山村の住民に  よる産物、そしてオンナたちを散々搾取して日常をきりまわしている。  まともな神経をしているなら、以上のような構図を内々に象徴している  戯曲に、感情的に反応してしかるべきだろう。   逆にいえば、こういった図式に無自覚なまま、オンナの自己犠牲的な  純愛幻想をあてはめ、アンデルセンの「人魚姫」的な献身をみてとる  女性たちがいるとしたら、「ちょっとまった」といいたい。   人魚姫が、王子におもいをつたえることなくアワときえたのとくらべ  れば、ひょっとして自然のなかで、回復できるかもしれない  「つう(ツルの化身)」の方がマシという解釈は、わからないでも  ないがね。   要は、この作品は、第三世界の女性たちを最下層とした世界資本主義  システムの「つみぶかさ」を、異性愛の不平等性という象徴化をとおして  直感するためには、非常にいいとおもう。   と同時に、農山村に純朴さ・純粋さを投影し、女性に すてみの純愛を  要求するのは、オリエンタリズムの変種でありセクシズムですよ、  知識人のみなさん。 (後略)


私は朝日購読者であるけれども、残念ながら読んだ記憶がない。 だいたい、土日の方が忙しいし、特に別冊は折込ちらしと一緒に…が 多いからね。 それから、このタカマサさんの文章はさておき、「夕鶴」の中身を読み 解こうとすることは置いておいて、その粗筋に別の、特に社会的意味を 付加して例えとしようとする試みが大変多いように思う。 「モラルハラスメント版夕鶴」などというものも見つけたが、 これなどはその最たるものであろう。 <今日の話の元ネタ> タカマサのきまぐれ時評 http://tactac.blog.drecom.jp/archive/1464#BlogEntryExtend







◆作曲・山本安英?


幕開き、子供たちが歌う唄 「じやんに着せる ふとぬの  ばやんに着せる ふとぬの  ちんからかん とんとんとん・・・」 じやん=爺やん ばやん=婆やん ふとぬの=太布=りっぱな着物 「ちんからかん」と梭(ひ)を滑らせ、「とんとんとん」と筬(おさ)を 叩きつけて織る、ということを歌っていることは安易に想像できる。 このメロディーは、伝承のわらべうた? それとも、團伊玖磨の作曲したもの? この詞は、佐々木喜善が採取し、まとめた「佐渡島昔話集」に収められて いるものだが、年配のご婦人が口ずさんでいたものを書き取ったらしい。 もともとは、メロディーがあったと思われるが、残念ながら言葉のみで、 採譜はされていない。 演出家の竹内敏晴が面白いことを書いているのでご紹介。



(前略) みなで勝手にことばを読みながら節がついてゆくままに唱えてみたら どうでしょう。 ひょっとするとはっとするような面白いメロディが生まれるかもしれない。 「ぶどうの会」で初演した折りの稽古がそうだったのです。 演出者にすすめられて「つう」役の山本安英が ぽつんぽつんとことばを たどりたどり唱えてみた。うんうん、そんなふうでいい、ということで、 そのおぼつかないメロディを作曲家の團伊玖磨が整理して、今シバイや オペラでうたわれているメロディになった。 (後略)


ということは、この歌に関しては、原作・山本安英といえるのかも? <今日の話の元ネタ> 竹内敏晴・著「ドラマの中の人間」  1999年 晶文社







◆特派員報告


先日重大任務を携えて佐渡に潜入した角田特派員から
マル秘映像(?)が届いたので、ご紹介。




北川辺地方にある「語り部の里 鶴女房」





語り部の里で民話「鶴女房」を聞かせてくれたおばあちゃん




語り部の里近くにある「夕鶴のふるさと 木下順二」の碑
佐渡の北川辺地方に伝わる民話「鶴女房」を木下順二が聞いて
「夕鶴」の脚本を書いたと言われている。
長年「つう」役を演じた山本安英さんとこの地を訪れ、
記念碑を建てたそうです。(角田特派員・記)







◆機織りではない鶴の恩返し(その1)


「夕鶴」でも、その原型となった「鶴女房」でも、鶴の化身の女が反物を織って 恩を返すという話になっている。 が、「鶴の恩返し」として「稲作が伝わった」という伝説のある地方もある。 今回はまず北越から。 次回(その2)は沖縄の話をご紹介したいと思います。




鶴の恩返し

「天保の改革」の前々年の天保七年(1836年)の春のことです。 小千谷の縮商人、芳沢東五郎という人が旅の途中、とある城下町でこんな話を 聞いたそうです。  近くのお百姓さんがある日、自分の田圃で死にそうに弱っている鶴を見つけて 哀れに思い、抱いて家に戻り、蓄えていた人参をすっては与え、すっては与えて 養生させてやりました。すると、その効あって鶴は数日後にはすっかり元気に なり、いづこともなく飛び去っていきました。 あくる年の十月のこと、二羽の鶴が助けた人の家近くに舞い降りてきて、口に くわえてきた稲の茎を地面におくと、一声鳴いて飛んでいきました。 拾い上げてみると、茎の長さが六尺もある立派な稲で、穂も長く、籾も五、六 百粒ついていました。さては去年助けたあの鶴がつがいとなり、恩返しにどこか から運んできたに違いない、それにしても珍しい稲だ、独り占めにしては申し訳 がないと、お百姓さんはその稲を、ことの次第を申し添えて領主に献上しました。 暫くしてから、領主に呼び出され、 「この稲はお前が丹精して育てなさい」と籾を渡されました。 翌年の春、その籾を育ててみると、秋には鶴の持ってきた稲に負けない立派な 稲になりました。  この話を聞いた東五郎は 「そのお百姓さんの家は何処なのですか」 と尋ねました。すると、偶然にもその家は東五郎が前の日に縮を売った家でした。 早速そこを訪ねて、 「国の土産にしたいのですが、その鶴の籾を分けてはいただけませんか」 と頼んだところ、 「越後は話に聞くと、米のよくとれる国だそうですから、さぞ立派な米がとれる  ことでしょう 」 と、快く升にいくつかの籾を分けてもらうことができました。  東五郎はこれを国にもちかえり、 「これこれしかじかの訳のある籾でございます」 といって、その籾を殿様に献上しました。殿様はたいそう喜ばれて、籾を城内に 植え付けさせ、東五郎には褒美を与えました。そして、城内で育てられた稲は 次第にその数量を増やし、国中に広まっていきました。 出典:北越雪譜物語  田村賢一訳著  新潟日報事業社 <今日の話の元ネタ> 湯沢砂防事務所 ミニ知識 歴史・民俗−25 鶴の恩返し http://www.hrr.mlit.go.jp/yuzawa/fm/chishiki/rekishi-25.htm







◆機織りではない鶴の恩返し(その2)


今日ご紹介する沖縄の伝説は、「恩返し」というものではありませんが、 稲作が中国から沖縄に伝えられたという、稲作発祥の起源とも言うべき話に なっています。 それに一役かっているのが鶴。 「鶴」という鳥を昔の沖縄(琉球)の人たちがどう考えていたかを知る 手がかりになると言えるかも知れません。




男神シネリキヨと女神アマミキヨは、波に漂っていた沖縄の島を作り固めたと 言われますが、そのアマミキヨの子孫にアマミツという人がいました。 アマミツは、ある時中国に渡り、福建省に行ったとき、これまで見たことがない 穀物を唐の国の人達が食べており、その食べ物を勧められました。 「うむ、こんな旨い物を今まで口にしたことがない。」あまりの旨さになんとか その種を貰おうと願い出てみました。 しかし、他のことは聞いてくれる中国の人達も、その種を持ちかえることだけは 許してくれませんでした。  アマミツは、しぶしぶ琉球へ戻ってくると、このことを沖縄本島中部の 伊波城(いはじょう)を根城にして、盛んに海外交易を行なう伊波按司に話しました。 按司は、琉球に戻ると飼い慣らした一羽の鶴を連れて、再度中国に渡り、 その鶴の足に密かに稲を結び付け、沖縄へ向けて飛ばしました。 急いで船で琉球に帰って鶴が帰ってくるのを待ちましたが、なかなか戻って きませんでした。あちこちと捜したがいくら捜しても鶴は発見できなかった ので、按司は伊波城に帰っていきました。 それでもアマミツはあきらめずに探し回っていると、受水走水に近い 新原海岸(みーばるかいがん)の西方の米地(めーし)のカラオカハの泉(現在の 浜川御嶽:はまかわうたき)でとうとう鶴の死骸を見つけました。 よく見ると、その鶴の死骸の側には、三本の稲の苗が芽を出していました。 アマミツは、その苗を取って、受水の前の狭い田にそれを植えました。 田に実った稲穂は三本だったので、その田は三穂田(みーふーだー)と呼ばれる ようになりました。こうして、稲はだんだんと琉球に広がり、とうとう国中に 広まったということです。 <今日の話の元ネタ> 沖縄民話「沖縄の稲の始まり【玉城村】」〜日刊OkiMag http://okinawan.jp/minwa/minwa021.htm







◆採話者と話者


「夕鶴」は佐渡の民話を元に木下順二が戯曲として書いたということは、 これまでに触れてきたとおりであるが、元になったという「佐渡昔話集」の 採話者:鈴木棠三と、鈴木に物語を聞かせた語り部はどんな人だったのか、 どうして鈴木が佐渡の昔話を採取することになったのか、をご紹介。 鈴木棠三(すずきとうぞう)1911〜1992 民俗学者。『佐渡昔話集』の採話者。 静岡県に生まれ。昭和9年国学院大学国文科を卒業、同大学院に在学時中の 昭和11年(1936)年4月、柳田国男の勧めで佐渡へ渡り、河原田の医師で 民俗学者の中山徳太郎を訪ねた。このとき知り合った中川雀子の案内で 海府めぐりを計画、戸地でバスを下り、北片辺の松屋旅館で昼食をとった。 館主栄治松太郎の幹旋で、同地の老女たちから数多くの昔話を採集した。 木下順二の民話劇「夕鶴」や、「三年寝太郎」の素材となる昔話は、 このとき採集されて『佐渡昔話集』(昭和17年、三省堂)に載ったのが 木下の目にとまる。 また、多くの島内知識人・教師・民俗学研究者らとも知り合った。 片辺にはさらに二泊し、都合六泊している。 昭和60年10月、「夕鶴の碑」ができるというので、ほぼ50年ぶりに来島、 磯部欣三の案内で外海府を一周した。 北片辺では旧松屋旅館を訪ね、鷲崎には50年前に松屋旅館の玄関で、 「じやんに着せる太布(ふとぬう)の、ばやんに着せる太布の─」の 機織唄をうたってくれたという、遍路の老女二人のことを知りたくて訪ねた が、身元はついにわからなかった。 「日本では、まだ聞いたことがない唄なので」と残念そうに話した。 「夕鶴」では、これがわらべ唄になって登場している。 『故事ことわざ辞典』『日本年中行事辞典』『ことばの遊び』など 多くの著書があり、折口信夫にも師事している。 平成4年7月、80歳で鎌倉市の病院でなくなった。 道下ヒメ(みちしたひめ)1865〜1942 話者。 慶応元年2月2日相川町石花、小松源蔵の二女に生まれる。母はカメ。 明治26(1893)年同町北片辺の農業道下鹿蔵と結婚。28歳だった。 昭和11年(1936)4月、国学院大学在学中の鈴木棠三が来島し、 21日から25日まで同地の松屋旅館に投宿、六十数話を採話する。 ヒメのほか古野スエ・川端トメ・本間チヨ・井畠いと・中畑ツマ・ 生浦ミイ・栄治リツ・斉藤トラの九人で「寝太郎婿入り」「姥捨山」など、 豊富な昔話を記憶していた。 鈴木は5月9日に離島したが、このときの採話は柳田国男の『全国昔話記録』 の第一編である『佐渡昔話集』として、昭和17年に刊行された。 佐渡の民話研究のほぼ先がけで、ヒメが語った「鶴女房」が、たまたま戦後 木下順二の民話劇「夕鶴」に脚色され、山本安英の「ぶどうの会」によって 全国で公演され、オペラにもなって海外に紹介された。 通称は「又兵衛のばあ」。当時72歳でときどき日雇に出歩き、顔にあばたが あった。裂織が上手で早やくからカラフルな模様物など織っていたという。 鈴木の回想だと「話に好みがあって、歌ひよみと言う律語の部分のある話を 好んでしてくれた。耳が少し遠かったが記憶はよく、他の話者の忘れた部分 などをよく補充された」という。 昭和17年7月6日に、77歳で死亡した。 上記2項目の執筆者:本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より) <今日の話の元ネタ> 佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」 http://blogs.dion.ne.jp/lllo/ なお、ハンドルネーム:llloさんの「ガシマ」は、佐渡の文化を非常に詳しく 網羅された、辞書的ブログになっている。 佐渡の方言(与ひょうらのセリフ<歌詞>の端々に出てくる)のコーナーもある。 佐渡について知りたい方は、一度アクセスしてみることをお奨めしたい。







◆「鶴」ってどんな生物?


現代において、鶴は身近な鳥とはいえないのではないだろうか。 確かに、言葉として「鶴は千年、亀は万年」とか「掃き溜めに鶴」、 「鶴のひと声」とか身近に存在する。しかし、実像は動物園に行く とか、図鑑で見るとかでしかお目にかからないような。 あるいは「タンチョウの舞」は有名だから、映像としては私も見たことがある。 しかしてその実態は? 日本人が「鶴」にもつイメージとは? なもんで、ちょっと「鶴」について調べてみた。 まずは、学術的なことから。 ツル(鶴)は、ツル目・ツル科(学名:Gruidae)に分類される鳥の総称。 どの種類も長いくちばし、首、足をもつ大型の水鳥である。 南極大陸と南アメリカ大陸を除く4大陸に、2亜科・4属・15種類が分布する。 どの種類もくちばし、首、足が長く、体長1m前後に達する大型の鳥類である。 羽毛は黒、白、赤などで彩られ、体も大きいのでよく目立つ。 また、顔に皮膚が裸出した部分があるのも特徴である。 田、湖沼、川、湿地、草原などに生息する。食性は雑食性で、 小動物から植物の果実まで、いろいろなものを食べる。 巣は地上に作る。種類にもよるが卵は1個-4個で、30日前後抱卵する。 卵から生まれたヒナは飛ぶことはできないが、すぐに歩けるようになり、 親鳥について餌を探し回ることができる。 ツルが生きるためには多くの餌、ひいては豊かな生態系が必要である。 有史以来の人間の活動、または狩猟によって、世界各地のツルの生息地は 大きく狭められ、21世紀初頭の段階では絶滅が危惧される種類も多い。 しかし同時に生息域各地での保護活動も盛んになっている。 <日本のツル> 日本では北海道の釧路湿原とその周辺に留鳥として生息するタンチョウのほか、 山口県や鹿児島県出水市などに冬鳥として渡来するナベヅル、 マナヅルがよく知られ、いずれも天然記念物に指定されている。 この他クロヅル、カナダヅルなどがごく稀に飛来する。 <その他のツル> 日本以外にも、繁殖地の中央アジアからヒマラヤ山脈を越え越冬地のインドへ渡る アネハヅルや、鮮やかな飾り羽をもつカンムリヅルなど、個性的な種類がいる。 以上、"Wikipedia (ウィキペディア) "記事検索 つる 【鶴】 ツル目ツル科の鳥の総称。大形の鳥で、頸(くび)と足が長く、 背の高さ1.5メートルに及ぶものもある。気管が長くとぐろ状で、 鳴き声が共鳴して遠方にまで届く。湿地や草地に編隊を組んで飛来し、 穀類や小魚を食べる。繁殖期などに、いわゆる「鶴の舞」を舞う。 日本では北海道で留鳥のタンチョウのほか、鹿児島県・山口県などに マナヅル・ナベヅルが渡来する。体形優美で、長寿を象徴するなど 吉祥の鳥として古くより尊ばれ、民話や伝説などにも登場する。 歌語としては、古くは「たづ」が用いられ、 平安時代以降「つる」も用いられるようになった。 以上、"mini動物辞典" http://www.saigyo.org/saigyo/html/dobutu.html







◆タンチョウヅルはハゲ頭


前回からの続きですが、ちょっと雑学的に。 鳥類(特にセキレイ)にお詳しい、ハンドルネーム:Hichiさんの ブログ「つれづれマンスリー」には次のようにありました。 つる: 仙人ののりもの。 昔はそこらへんにもいたらしいが、今日、分布は極めて限られている。 空を飛ぶ鳥としては最大級で、その華麗で神々しい姿によって古く から神格化され、尊ばれた。 鶴の恩返しとして知られるように昔話に数多く登場することはもちろん、 そのコウコウと響き渡る鳴声は多くの歌人に詠まれている。 ただし、歌には常に「たづ」という名前で現れ、「つる」は用いられない。 これがいわゆる歌語というやつで、下世話な言い方をすれば、品格を 強調するための逆差別用語みたいなものである。 現生のツルは北海道にいるタンチョウと九州に渡ってくるマナヅル、 ナベヅルが有名であるが、何といっても一般の知名度ではタンチョウであろう。 餌付けが効を奏したのか,少しずつ個体数は増えている。 しかし、絶滅寸前であることに変わりはないであろう。 ところで、タンチョウのあの赤い頭のてっぺんがツルッパゲの皮膚の色と いうのはご存知か? だからどうこういうわけでもないけれど、やはりツルはおとぎばなしの中で 知っているだけの方がよいかもしれない。 実物は,ダチョウほどではないが、少しくガサツな生き物なので... 『和漢三才図会』(下記注1参照)には,「和名は豆留(つる)」とあり、 『本草綱目』(下記注2参照)から霊験あらたかなエピソードが引用されている。 その後で、ツルの肉味についての評価があるので、これを紹介すると、 「気味は甘鹹で香臭がある(他禽と同じではない)。中華の人は食品とはしない。 わが国では上饌とする。丹頂は肉が硬くて味はよくないので、 これを食べるものは少ない」 ということだそうだ。 私的には、マナヅルは1回くらい食べてみたいような気がする。 しかし、確かにタンチョウは美味しくなさそうだ。 おそらく、今日のようなツルの個体数の減少をもたらした最大の原因は、 乱獲でなく、環境破壊であろう。 (後略) 注1:和漢三才図会【わかんさんさいずえ】 寺島良安著 江戸時代の図説百科事典。寺島良安著。105巻81冊。 明の王圻(おうき)の「三才図会」に倣って、和漢古今にわたる事物を 天文・人倫・土地・山水など天・人・地の三部105部門に分け、 図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。 注2:大和本草【やまとほんぞう】 貝原益軒著 日本発の博物・本草書 1709年(宝永7年)に刊行された。 益軒は「本草綱目」の分類方法をもとに独自の分類を考案し編纂、 収載された品目は1,362種、本編16巻に付録2巻、図譜3巻、計21巻。 薬用植物(動物、鉱物も含)以外にも、農産物や無用の雑草も収載されている。 本来の本草学とは薬用植物を扱う学問であるが、この大和本草に於いて 日本の本草学は博物学に拡大された。 "鶴は高級食材"だったのか!? このあたりの情報は次回。 <今日の話の元ネタ> Hichi World つれづれマンスリー2000年10月号 http://www80.sakura.ne.jp/~sekireist01/tt2000_10.htm







◆鶴の焼き鳥


今では北海道と九州でしか自然の鶴にはお目にかかれないようなのだが、 少なくとも江戸時代には、東京でも見ることのできる、身近な鳥だったらしい。 NPO法人・日本水フォーラム事務局長の竹村公太郎氏が、 「広重に見る近代文明の萌芽」という演題で講演を行い、 「安藤広重の日本画から江戸の町事情、江戸幕府の治水事業を 読み取って考えると面白い」と発言、150年前の江戸・日暮里は湿原で、 現在では北海道の釧路湿原にしか生息しないタンチョウ鶴が生息していたと 指摘した、とある。 また、将軍の鷹狩に関しての記述で、 1716(享保元)年、吉宗が紀州藩主から将軍になると、5代将軍綱吉の 「生類憐みの令」によって一時休止していた鷹場制度を復活し江戸周辺に いくつかの鷹場を設定した。(中略) 江戸周辺で鶴の生息状況の良い葛西領の西小松川村(現江戸川区)へ (中略)17年吉宗が鷹狩りを催した際、黒鶴1羽を初めて捕らえた。 というのも見られる。 ということは、将軍が狩するだけの鶴が江戸の町にもいた、ということ。 で、獲物となった鶴だが、どうしたんでしょうね。 ってやっぱり食べたんですね。 「やきとりの歴史」なんていうのまで発見。 そこに、次のようにある。  江戸時代、武家の間で最上の鳥とみなされていたのは「鶴」であった。 その優美な姿のためか、茶会や饗宴の席に鶴が登場するようになる。 家光の代から「鶴御成」といって鷹狩りで捕った鶴を朝廷に献上し、 残ったものは大名たちに贈られた。 宮中では、将軍家から贈られた鶴を清涼殿の前で行われる「鶴の庖丁」で 天皇に献じられた。  その味の方はというと、角田猛氏の『いかもの』(ダヴィット社刊)によれば 「煮ても焼いても不味い」ものだったという。 江戸時代の物流を考えると、クール宅急便で送る、なんてことはない わけで、多分、塩漬けとか、なんか加工した形で送るか、さもなければ 腐る寸前の、って思っちゃうんだけれど。 あ、冬季ならば氷はあるわけだから、クール便にできるか… しかし、こう考えてみると、「つう」は与ひょうに助けられなければ、 宴会の焼き鳥になっていたかもしれないんだな。 <今日の話の元ネタ> 大紀元時報−日本 http://jp.epochtimes.com/jp/2006/11/html/d39294.html 発見!三重の歴史:鷹狩り http://www.pref.mie.jp/bunka/TANBO/hakken/page109.htm やきとりの歴史/【江戸時代】 http://www.yakitori-jp.com/encyclopedia/histry/hhtml/rekisi04.html







◆カットされた部分


ネットで「夕鶴」を検索すると、すごい数がヒットするのだが、 この解説(?)に、「原作のセリフを一言一句変えずに作曲」とか 記されているものがある。それも、かなりの上位でヒットするものが 多いから、それを信じちゃいやすいんだけど、楽譜と戯曲を見比べると、 細かな手が入っているのは一目瞭然である。 細かなところは、実物にあたって頂くとして、 私が大きな変更(カット)だと思うのは2箇所。 与ひょうがつうに再度布を織れと迫るシーン、 「今度は前の2枚分も3枚分もの金で売ってやるっちゅうでよう」の後。 そしてエンディング。 このエンディングについては、音楽評論家で、名古屋音楽大学教授の 西崎専一さんが、愛知県文化振興事業団の「夕鶴」公演に対する批評の 中でそのことに対する一つの解を述べておられるので、 そのまま以下に引用させていただく。



愛知県文化振興事業団公演「夕鶴」を聴いて  「夕鶴」は、作曲者自身の手によって半世紀に近い上演が記録されたという点で 音楽史上にも例をみない作品であり、オペラを私たちに親しいものにするという役割を これまで担い続けてきた作品でもあった。そして名作といわれる作品は、 創作者の手を離れて、その命をさらに新たにすることができるものである。 愛知県文化振興事業団と日生劇場の共同制作による今回の公演は、 期せずして作曲者團伊玖磨急逝後の最初の本格的な上演となり、 「夕鶴」第二世紀のスタートとしての意味をも担うステージとなった。

 「夕鶴」は不思議なオペラである。戯曲(木下順二)がそのままオペラの台本に 用いられたとされながら、実際には作曲者によって様々な改編が施されている。 特に幕切れ直前の惣どの台詞、それは惣どたちのつうに対する勝利宣言であるが、 「ところで、二枚織れたちゅうはありがたいこってねえけ」が削除されたことによって、 つうの苦悩の結末は民話調の素朴な紗幕で覆われ、美しい音楽がそれをさらに 情緒的にコーティングすることになる。しかし、物語の中心に絶望するつうが いることもまた間違いがない〈注〉。今、「夕鶴」に取り組む意義のひとつは、 この秘められた矛盾の表現に挑むことであろう。

 鈴木敬介の演出を中心とする舞台作りは、近年の「夕鶴」上演の スタンダードとして親しまれてきたものであり、とりわけ新鮮味を感じさせた わけではなかった。背景の表現は抽象化され、オペラのなかに日常的な 息吹を吹き込むはずの子供たちの動きもデフォルメされている。
しかし、鈴木演出の骨格である、つうと惣どを対比させることによって「夕鶴」を 支えているふたつの世界のコントラストを鮮明にするという姿勢は、 これまでのどの公演よりも明確に伝えられたように思われた。

 今回オーディションを中心に選ばれたという、ただし新人ではなく十分な 実績をもつ歌手達は、役柄の内面性に応じてよくコントロールされた歌唱を聴かせた。 特に顕著だったのはつうを演じた飯田実千代の成長ぶり。
これまでは声をいっぱいに使う力演型の歌唱が多く、それが時として表現を 浅くしたが、今回はそこから脱皮して、つうの内面的な心象の変化に対応して 声をよくコントロールし、奥ゆきのある表現を聴かせた。
対する惣どの戸山俊樹も、山賊の親玉風の出で立ちにはいささかの違和感を 覚えたが、それはまた世俗に徹した生き方の凄みをストレートに伝えることにもつながった。

 こうなると、与ひょうと運ずは、まさにドラマの点景としての役割しか帯びなくなる。 幕切れ、観客の目は「布」に強引に手を伸ばそうとする惣どに釘付けになり、 与ひょうも運ずも、その存在すらが意識から消えてしまう。
それは、吉田伸昭と林剛一がそれほどのはかなさで点景に徹した舞台を務めた、 ということでもある。

 その点で、今回の公演は、歌劇「夕鶴」のなかにひそむ戯曲「夕鶴」の血を 引き出して見せてくれた。観客は、つうとともに、予定された救済と慰めからは 遠ざけられるが、それでこそ「夕鶴」もまた20世紀の生んだ歌劇であることの 意味が明らかになるのである。

 現田茂夫の指揮する名古屋フィルは、端正な響きでドラマをサポートしたが、 テンポがやや単調で、時折、作曲家が振ったときの音楽の大きなうねりが なつかしく思い出された。團伊玖磨は「夕鶴」の指揮台に立つことに 情熱を燃やし、そしてロマン的な香りの漂う演奏を聴かせた。
その演奏は「夕鶴」の世界を私たちの日常的な感覚に馴染ませるものだったが、 あの感触はもう懐かしさとともに振り返るしかなくなったようである。

〈注〉西崎 専一「『夕鶴』のドラマトゥルギー」
  (名古屋音楽大学研究紀要Vol.14)

西崎専一(名古屋音楽大学教授・音楽評論家)


<今日の話の元ネタ>

愛知県文化振興事業団公演「夕鶴」を聴いて
http://www.aac.pref.aichi.jp/aac/aac33/aac33-5-2.html







◆3種の鶴女房


「夕鶴」は「鶴の恩返し」「鶴女房」などとして語り継がれている話を元に つくられたのだが、全国に100を超える話があるという。 以下は「日本昔話辞典」による。



<鶴女房>

助けられた鶴が女房となり、機織りをして恩返しをするという異類婚姻譚。
日本全国に多く分布しており、現在約110話が報告されている。標準型、謎解き型、難題型がある。
大半は標準型で約85話ある。

標準型は、若者(狩人)が傷ついた鶴を助ける。美女が訪ねて来て女房(娘)になる。
女は覗いてはならないと言って機を織る。布が高価に売れる。
男が機屋を覗くと、鶴が羽を抜いて反物を織っている。
女は正体を見られたことを知って、飛び去る。

謎解き型は、居場所を暗示する謎を残すもので、鶴が去る時に、水を張った皿に針を入れたものを残す。座頭(僧)に尋ねると「播磨国皿池」に居ると教えられ、会いに行く。この型も東北から黒島(鹿児島県?)まで全国各地に15話ほどの採取例をみる。「播磨国皿池」というのは兵庫県神崎郡市川町鶴居と、たつの市嘴崎町大住寺とに、皿池という名で現存する。「播磨鏡」によると、嘴崎は昔は鶴居とも言い、山が鶴の嘴(くちばし)に似ているところから嘴崎になったと記しているので、どちらの皿池も鶴とは深いかかわりを持つ。また謎を解く人が座頭の類であることからも、謎解き型の伝播者と座頭の関係、さらに皿池との結びつきが重視される。

難題型は、青森と山形で2話しか採取されていない(山形では鴨)。美しい女房のことが殿様の耳に入り、「灰縄千駄」「打たん太鼓に鳴る太鼓、ひょうひょう鳥の袖被り」「蛇3匹」の難題を出されるが、女房の知恵で解決。その後機織りをし、正体を見られて去る。御伽草子の別本はこの難題型である。
異類婚姻譚では、異類の姿を知ることがその婚姻の破局につながるのが原則である。男は禁止されていた機屋を覗き、神の化身である鶴の姿を見てしまう。
機屋というのも特別な場所とされていたらしく、青森、福島、新潟、甑(こしき)島、奄美では、鶴が機屋を別棟に建ててくれと言っており、さらに青森、岩手、新潟、山梨、静岡、福井、島根、広島、黒島、奄美においては機屋に篭る日が3日、あるいは7日と語っている。これは機織りに仕える処女が、物忌みし、神衣を織るという巫女信仰を印象付けている。
神聖な機屋を覗き、女の真の姿をみたことは、最も大きなタブー侵犯になり、別離につながる。
また元来、鶴は神聖な鳥と信仰されており、鶴が稲穂をもたらしたという伝承は多い。東北、濃く陸、四国、九州南部では、鶴が美女となって訪ねて来るのは大晦日の晩であり、その時に米粒を持参し、それは釜一杯の飯になったと語っている。米の霊力に対する期待と共に、鶴の穂落とし伝説とも考え合わせ興味深い。

本話は標準型の話が座頭などの伝播者により謎解き型に改作され、また難題の目新しい時代には、それを引き込んで流布されていったのであろう。 亜型としては、鶴が別の形で恩を返す話が約10話ある。
なお、室町期に書かれた「鶴草子」は、本話を物語草子化したものである。


<今日の話の元ネタ>

「日本昔話辞典」
弘文堂 平成6年







◆「鶴の草子」 その1


"鶴の恩がえし"として一般に流布する話のもとになったのは、 お伽草子の「鶴の草子」(つるのさうし:つるのそうし)とされる。

御伽草子(おとぎぞうし)とは、室町時代から江戸時代にかけて 成立した、短編の絵入り物語、及びそれらの形式。 広義に室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともある。


お伽草子、おとぎ草子とも表記する。 300編余りが存在すると言われている。 そのうち世に知られている物は100編強だとも言われるが、同名で内容の違うものや その逆のパターンなどがあり、正確なところはわからない。 室町時代を中心に栄えたが、御伽草子の名で呼ばれるようになったのは18世紀、 およそ享保年間に大坂の渋川清右衛門が『御伽文庫』または『御伽草子』として 刊行してからの事である。 『ウィキペディア(Wikipedia)による』 以下に「鶴の草子」の概略と、粗筋をご紹介。



「鶴の草子」は、有明堂文庫『御伽草子』、また『佼訪日本文学大系』 一九巻に活字化されている。 京都三条通菱屋町のふ屋仁兵衛が寛文二年(一六六六) に開板した 絵入の三冊本が原本である。 前記『日本文学大系』の当該部分で三〇頁に及ぶ。よって『日本文学 大辞典』の梗概を引用する。  中頃、宰相で右兵衛督を兼ねていた人があった。 父の左大将むねまさは世に時めいていたが、この宰相は殊更慈悲の 心深く、それがため遂には自らその日の糧にも困り、人との交も薄らぎ、 親しい者も遠ざかったので、隠家を求めて静かな余生を送ろうと、 あてもなくさまよひ出で、或る山蔭に草の庵を見付けて一夜の宿とした。 (中略)  或る日宰相は散歩の帰途、沢辺の小田に雛鶴を見出したが、 折しも一人の猟師に捕へられたのを見るに忍びず、肌身離さず持っていた 重代の黄金作の刀を与え、請い受けて放ったところ、 翌日召使いを伴った美しい女房が一夜の宿を求め、その請うに任せて 契りを結び、差出された千金を家主の里人に渡して宏大な邸宅を建て、 召使を揃え、俄に大長老となった。(中略)  その国の守護官宮崎左衛門督は、(中略)北の方の美しさに魅せられて 病となり、(中略)遂に軍勢を整へ宮崎自ら先に立って押寄せた。 北の方は夫を励ましつつ皆紅の扇で虚空を仰ぐと、俄に山風烈しく 吹き来って黒雲館を覆い、雲の中から異類異形のもの数多現れて 敵に向った。(中略)  後、北の方は父母の許へ帰るべき時が来たと告げる。 驚き悲しむ宰相に、生を変えての再会を約し、形見の一筆を乞ひ、 自分はかの助命の恩を受けた雛鶴なる由を打明けて大空高く飛び去った。  さらに時が経って、約束どおり鶴は人間の娘として再生、 宰相とふたたび結ばれることとなり、その後は子供にも恵まれ一家は 富貴繁昌した、という粗筋である。    至文堂『日本の美術』五二「お伽草子」に掲載された「鶴のさうし」 奈良絵本三冊などもこの類いである。 鶴の報恩談、鶴との怪婚談を示す同様の説話は各地に昔話として流布する ところで、『小県郡民詩集』『信連民寄集』『甲斐昔話集』『北安曇郡 郷土誌稿』等に収められる。 しかし、これらの昔話では、女房となった鶴が自分の胸毛を抜いて織物を 制ることになっており、公刊本で異類異形の者たちが現われて敵を妨ぐと いう設定とは相違する。 <今日の話の元ネタ> 「鶴の草子」 http://www.kyohaku.go.jp/jp/kankou/gaku/pdf_data/5/ 005_ronbun_c.pdf







◆「鶴の草子」 その2


奈良絵本「鶴の草子」伝本は、室町末期に成立したとされる一冊本系統と、 江戸初期の成立とされる三冊本系統の、二系統に分類される。 (注:奈良絵本とは、挿絵入りで書写された御伽草子である。) 二つの系統は内容が大きく異なるが、昔話『龍宮女房』をもとに作られ、 その雰囲気を残す一冊本が先に存在し、三冊本はそれを読み物として 改作したものであるとされる。 「鶴の草子」その1でご紹介した話は、三冊本系統のもので、 以下で一冊本系統の粗筋をご紹介。



昔、筑後の国の「かうのしやう」 に大屋の兵部少輔という人物がいた。
もとは大層な身分だったが、打続く国の乱れのために所領も奪われ、
妻にも先立たれて、今では、一人木樵を業として暮していた。
ある日のこと、近所の者が鶴を捕えて殺そうとしているのを見、その日は妻の命日でもあって、着ていた惟子と交換に鶴を得、放してやった。
翌々日の夕暮、美しい女房が女童を伴って訪れ、一夜の宿を乞う。
女房と契りを結んだ男の家は次第に栄えて行く。
地頭の息子は女房に横恋慕し、男に難題を吹っかける。
「菜種一石をすぐ持参せよ。出来なければ女房を差し出せ」 と命令するが、女房は新古どちらがよいかと答えなさいという。 男がそうすると、地頭の方ではこれではどうにもならぬと思い、新たに 「わざはひ」というものを同道せよと告げる。
男はまた女房に相談すると、女房は自分の親の元にそれはあるといって、女童に男を案内させる。東北の方へ進んで行くと、立派な邸があり、非常な歓待を受けた。
翌朝、女房の両親と思われる人から「わざはひ」を貰った。
それは牛ほどの大きさで角のある狼のような獣であった。「わざはひ」を連れて地頭の館に行くと、地頭はその「わざはひ」とやらがどれ程のものか、と嘲る。「わざはひ」が角を一ふりすると、俄かに空が曇り風が吹くと見るや、館中を走り回り、犬や人を噴い殺す。
地頭はたまらず降参し、自分の火急の折には助けてくれと頼み、引手物を贈って帰らせた。家に帰った男に、女房は自分は以前助けられた鶴で、あなたも今は富み栄え、命も百歳まで保たれるであろうから、もはやお別れしなければならない、と述べると、鶴の姿に戻って東の方へ飛び去って行った。


かなり趣の違う話になっているが、決定的に異なるのは「わざはひ(災い)」という怪獣が登場することである。
本書の説話と流布本(三冊本)のそれとでは、話の単純明快さなどから考えて、前者の方(今回ご紹介のもの)が先に成立したであろうと見ている。


<今日の話の元ネタ>

「鶴の草子」
http://www.kyohaku.go.jp/jp/kankou/gaku/pdf_data/5/ 005_ronbun_c.pdf

つるのしうけん 広島大学所蔵奈良絵本・室町時代物語
http://www.lib.hiroshima-u.ac.jp/dc/kyodo/naraehon/tsuru/tsuru.html







◆「オペラはこうして演出される」 その1


オペラ「夕鶴」の演出を長年にわたって手がけられた小田健也さんの著書「オペラはこうして演出される」から。
副題として「オペラ『夕鶴』演出ノート―おぺら『ちゃんちき』、『メノッティ』ノート オペラ歌手のための基本的な演技論―」 とある。
本の大部分が表題通り「夕鶴」の演出ノートと、「夕鶴」に関することが書かれている。
この本に関しては、私お茶汲みおばばが特に関心を持って読んだところの、ほんの一部をご紹介するにとどめ、「夕鶴」に関わる方には是非一読されることをお奨めする。


歌劇と演劇の「夕鶴」―その同一性
(前略)團氏は、オペラ「夕鶴」が初演されて日も浅い55年に、「ぶどうの会」の後援パンフレットの座談会「民話劇の世界」の中で、このようにも書いている。
「『音楽というものは聞く方で積極性がなくとも勝手に聞こえてくるから嫌いだ』とカントがいったそうだが、そこなんですぼくがつくる理由は。木下さんの民話をよりわかりやすく伝えて行く中で、作品によっては、歌劇ということもあり得る表現様式だと考えたんです。つまりオペラに民話をつかうのではなくて、民話の中にもうけられた思想をより多くの人に知ってもらうために民話を歌劇化することを考えたんです。それは今に日本のオペラが一人歩きしていくことができるための基礎になるんじゃないかとも思ってます」
(中略)
初演のパンフレットに演出家の岡倉士朗氏は
「(前略)オペラ「夕鶴」の作曲が出来て、ピアノ・スコアで聴かしていただいた。そして感動した。みごとだった。
『夕鶴』の舞台が眼底に勇躍した。それは演劇『夕鶴』と全く同じだった。(中略)一時は、舞台で長い間の公演でやっとできあがってきたポエジーがぬすまれたような淋しさを感じたが、それは、あの木下君の作品の中に流れているポエジーなので、けっして演劇だけが独占すべきものではないことを知って、却って嬉しくもあった(後略)」
と書かれているが、やや感覚的な言い方ではあるが、偽りのない実感であったようと思われる。
作曲家自身の重いからいっても、受けとる側から言っても、そのドラマの意図するものは、「夕鶴」に限っていえば同一と考えても間違いではなかっただろう。
(その2へ続く)


<今日の話の元ネタ>

小田健也・著
「オペラはこうして演出される―オペラ『夕鶴』演出ノート」
芸術現代社 S.63







◆「オペラはこうして演出される」 その2


小田健也さんの著書「オペラはこうして演出される」からの続きです。

歌劇と演劇の「夕鶴」―その相違性
オペラが音楽によって構築される劇(ドラマ)である以上、その出発点は同一性を持ち得たとしても、ことばによるドラマとはどうしてもその完成や抽象性において差異があることは当然のことである。(中略)
われわれは、与ひょうに自分をアイデンティファイすることで、現代的な思想と普遍的な人間の門外を獲得することが出来た。こうして舞台は、かつて岡倉士朗氏が"ポエジー"としか言い表しようのなかったものに具体的な様式を与えていくことになる。
 それは民話が本来、地域的な具体性をもちつつも、語りつがれる中で人間の普遍性をうかびあがらせていったように、"一面の雪の中にぽつんと一軒、小さなあばらや"といった具象をもちながらも、それ自体がしつらえた空間に置かれることで鮮明な抽象性をもつに至った。これはまた、このオペラの音楽がもっていた具象性と抽象性、あるいは抒情性と反抒情性といったものの調和のとれた様式と見合っていた。
 今にして思えば、もともと團伊玖磨氏は、演劇の「夕鶴」からその契機を得たとしても、音楽そのもののもつ抽象性からも、あるいは作曲家の感性からしても、こうした様式を、すでにその出発において志向していたのではないかと思われる。
 そのことは二、三の例で考えれば納得できる。幕開きと幕切れに、わらべ唄に共通するような、ややフォークロアな匂いのする「与ひょうのテーマ」が置かれている。これは与ひょうを軸としたドラマトゥルギーを示しているし、この与ひょうの土くさい具象性をもった音楽は、後で出てくる透明で美しい旋律をもった「つうのテーマ」を際立たせ、俗と聖、汚濁と清浄の現代絵図を明瞭に浮かびあがらせている。
 これは、幕切れ近く、つうが飛び立っていく「さよならのアリア」とそれに続く終景で、ますますはっきりとオペラならではの音楽的ドラマの展開をみせる。つうはたしかに運命にしたがって愛する与ひょうと分かれていくわけであるから、つらく、悲しみに満ちた歌を歌う。
しかしそれは、べったりとした抒情ではなく、きらきらと輝く氷か雪を想わせるような鮮烈な抒情である。
与表や人間たちがつうを追い出したというより、われわれ人間の方が、つうから見放され、見捨てられたかのように、つうの歌は眩しいばかりにわれわれを打つ。そして最後の「さよなら」に至って、ついにつうの声は、オーケストラを制し、人々を制し、空間を制して、限りなくディミヌエンドしていくのである。
先ほどの上原専祿氏の言葉(お茶汲みおばば注:このブログの「内田義彦との対談:その3」を参照のこと)を再び引用させてもらえば、
「より深く私を打つものは、そのような(悲劇的な=筆者)運命の実現にも拘らず、一切のものを雰囲気と情緒において制圧し尽くすところの清浄・典雅・純粋の絶対的優越の実証である」
ということになるが、まさにこのことは、オペラにおいてなお明確である。(後略)


<今日の話の元ネタ>

小田健也・著
「オペラはこうして演出される―オペラ『夕鶴』演出ノート」
芸術現代社 S.63







◆「オペラはこうして演出される」 おまけ


前回、前々回と、小田健也さんの著書「オペラはこうして演出される―オペラ『夕鶴』演出ノート」から、演出と音楽に関わるほんの一部を御紹介したわけだが、今回はおまけ編。
この本の中でエピソードとして書かれている、團伊玖磨氏の演出を御紹介して、この項を終わろうと思う。
 
(前略)
オペラ「夕鶴」の後半に、通称「お金のアリア」と呼んでいるくだりがある。都にいきたい、そのために布を織れ、でないと出て行ってしまうという与ひょうに対して、どうしても与ひょうを自分のそばにつなぎとめておくためには、つらいことだが、もう一度自分の羽を抜いて千羽織を織ってあげようとひそかに決心するつうのアリアである。 与ひょうはいろり端で眠っている。ひとり悩むつうは、囲炉裏のそばに置いてある巾着袋を手に取る。中からギラギラ輝く小判がでてくる。
思わず怖気をふるって手を離すと、小判はあたりに散らばる。それを見てつうは、
「これなんだわ、みんなこれのためなんだわ」
と歌いだす。「お金」が夫を狂わせてしまった怨みつらみを述べつつも
「いいわ、そんなにお金が好きなのなら、もう一度、もう一度織ってあげるわ」
と、静かだが、うちに自分との激しい葛藤を秘めて歌う件である。
ある日の稽古で、作曲者であり、指揮者である團伊玖磨氏が、「そこのところ、お金を拾い集めながら歌ったら、どうでしょうね」と提案された。
それまではそのアリアの終わった後で、小判は集められ、袋に戻されるこのになっていたのだが、あまりにも必死に思いを込めて歌う件なのでどの歌手もそんな、集中を邪魔するような動きをありあの途中でやることは考えもしなかったし、私自身も指示してはいなかった。
ところが團氏の提案によって、お金を一枚一枚拾い集めながら歌ってみた。テンポもゆったりしているその歌の中で、歌手は一転を凝視しようとすると、小判を拾わねばならず、なおも思いをこめて歌おうとして、また拾う。生理学的には、拾わずにアリアに集中したい。
しかしそれに逆らって歌うその姿は、布を織るのは死ぬほどつらい、しかし愛する与ひょうのためなら、もう一度だけ、織ることを決心しなければならないというその場のつうの劇的な心理状態と不思議にダブって、観ている側に締めつけられるような痛切さが響いてきた。動きが歌に拮抗しながら、しかも結果的に歌を助けている。
まことに見事な團氏の演出上の提案であった。
 私の方もまた、作曲者自身の前でそこの音楽はこういう意味をもっていると、歌手に説明することも度々あるわけだから、ことドラマをつくることでは、音楽だ演技だと完全に分離して考えるやり方は、オペラ「夕鶴」の稽古場にはなかった。それがすぐれたオペラを更にすぐれたものに仕上げていく原動力となったのではないだろうか。


<今日の話の元ネタ>

小田健也・著
「オペラはこうして演出される―オペラ『夕鶴』演出ノート」
芸術現代社 S.63







◆浮世絵の鶴 その1


以前「鶴の焼き鳥」と題した項目で、江戸にも鶴が生息していた、と書いた。 で、その証拠となる浮世絵に偶然ヒットしたので、それを御紹介したいと思う。 浮世絵は歌川広重「名所江戸百景」より「千束の池袈裟懸松」と 「蓑輪金杉三河しま」の2枚。 とりあえず「千束の池袈裟懸松」を見ていただこう。

画像が、どの位鮮明に見ていただけるか?なのだが、鶴が3羽飛んでいるのが 描かれている。 (一応赤丸で囲ってみたが、どうだろうか?) うんちくを少し。といっても受け売り、もとい、勝手なコピーではあるが。 まず「名所江戸百景」について


名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)とは、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)から同5年(1858年)にかけて制作した連作浮世絵である。
広重最晩年の作品であり、その死の直前まで制作が続けられた。最終的には完成せず、二代目広重の補筆が加わって、「一立斎広重 一世一代 江戸百景」として刊行された。
板元は魚屋栄吉で、江戸末期の名所図絵の集大成ともいえる内容で、目録と118枚の図絵から成る。

何気ない江戸の風景であるが、近景と遠景の極端な切り取り方や、俯瞰、鳥瞰などを駆使した視点、またズームアップを多岐にわたって取り入れるなど斬新な構図が多く、視覚的な面白さもさることながら、多版刷りの技術も工夫を重ねて浮世絵としての完成度は随一ともいわれている。

実際に「大はしあたけの夕立」や「亀戸梅屋敷」を模写したゴッホをはじめ、日本的な「ジャポニズム」の代表作として西洋の画家に多大な影響を与えたシリーズでもある。
(以上「ウィキペディア(Wikipedia)」による)


大きな画像は「ウィキペディア(Wikipedia)」で見ることが出来ます。↓

「ウィキペディア(Wikipedia)」千束の池袈裟懸松
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Hiroshige%2C_Landscape.jpg







◆ 浮世絵の鶴 その2


歌川広重の浮世絵、続いて「名所江戸百景」より「蓑輪金杉三河しま」 これは一目で「鶴」とわかる代物。しかも「タンチョウ」だー。



なお、この浮世絵は城西大学のHPでも見ることが出来る。(アドレスは↓)
この浮世絵を引用して、各務三郎氏が以下のように述べておられる。  

 クルルー、クルルーと鳴くツルの声は、広い湿原や干拓地によく響く。  あまり音楽的ではないが、長い鳴管のために音量がすごい。  荒涼とした冬の干潟では独特な雰囲気をかもしだしていたろう。  中国から伝わった〔鶴は千年〕のいい伝えで、ツルは平安期には瑞鳥とみなされるようになる。  江戸時代には、将軍の鷹狩りで捕らえられ、京都の朝廷に献上されるほどに高貴な鳥に出世する。  江戸の河川敷・海岸地帯はアシやマコモなどの水生植物が茂っていた。  カエル、魚、穀物、水生昆虫などを食べる水辺の鳥ツルにとって住みやすい環境だし、  周辺の水田には二番穂もあった。江戸城五里四方は将軍の鷹狩りのフィールドで、  江戸川区・台東区・荒川区などの湿地帯には、ツルの餌付場があり、厚く保護・管理されていた。  ガン・カモ類の狩猟も制限されており、市井人は水鳥問屋を通したものしか食べられなかった。  もっとも、秋山小兵衛の時代には、養生のためならとってもよいことになっていたから、  さぞかし、元気な病人がたくさん出たことだろう。  絵画の世界でもツルは人気のある鳥だった。  浮世絵では大胆な構図と色使いで知られる広重の「蓑輪 金杉 三河島」(『名所江戸百景』)の  タンチョウは印象的。いまの荒川区、三ノ輪のあたりは昔は三河島田圃といい、  荒川水系の氾濫原であり、餌づけされたツルの群れがスポットだった。

なお、余談になるが、江戸時代の町の治水(工事)をどのようにしていたかを、
立命館大学客員教授の竹村公太郎氏がまとめられている。
↑の記事の「氾濫原」なども竹村氏は著書の中で述べておられる。
歴史や民俗学に興味のある方は、お暇な折に一読されると面白いかもしれない。


<今日の話の元ネタ> 水田美術館(城西大学) 歌川広重《名所江戸百景 蓑輪金杉三河しま》 http://www.jiu.ac.jp/museum/his-eve/060509.html 各務三郎の『剣客商売』野鳥写真館 http://homepage3.nifty.com/oharu/ufo/kagami/kagami.html 竹村公太郎氏の著書  ・土地の文明 地形とデータで日本の都市の謎を解く  2005年 PHP研究所  ・日本文明の謎を解く―21世紀を考えるヒント  2003年 清流出版






◆おばばの独り言




種々雑多、ガラクタ箱をひっくり返したようなこのブログ。
調べていると次から次へと、いろんなことがあるんですねぇ。
きりがないんで、そろそろおしまい。

こんな節操のないブログにお付き合いくださいまして、
ありがとうございました。